MMオフィシャルブログ

全てフィクションです

パブロフの犬を脱したい

「大変恐縮ですが、諸事情により辞退させていただきます。」

まだ会ってもないのにハッキリと振られると、毎回地味に心にくる。いや、会ってその上で振られても心にくることは変わりないのだけど。

プライベートでは振られるほどの挑戦的な恋愛はしたことがないのに、もしかして、人は誰でも人生で振られる数が決まっているんでしょうか?

仕事で、仕事なんかで感情が動くなんて思っていなかったのに、この2年間何度も胸の奥が苦しくなって(本当に胸の奥が苦しくなることってあるんだなと思った)なんだか少し打たれ強くなったと思っていたけど、全然打たれ強くなっていないことについ最近また気がついてしまった。

 

私は企業の新卒採用担当をしている。

就活や面接といったテーマは、前提が揃っていなかったとしても、誰でも自分ごとにして語りやすいのでよく炎上する。なので、こうやってインターネットに文章を置くことには乗り気じゃなかったのだけど、区切りと思って思いの丈を吐き出すことにしてみた。

採用担当は学生一人一人の名前や顔なんて覚えていないだろうという前提のもとでコミュニケーションをとられることが多いけど、私はどうやら記憶力が非常にいいらしく、結構顔と名前を覚えている。顔を合わせたことがない学生ですら学校名と名前を覚えているくらいで、25年間生きてきて今気がついた特技である。

だからこそ、会ったことがある人にも、会ったことがない人にも、辞退ならぬ逆お祈りをされると心が痛む。

勝手に期待して、勝手に未来を描いて、勝手に気持ちが昂って。そういう私が悪いんだけどね。もっとビジネスライクに考えればいいんだけどね、そう思うこともあるんだけど。最初はそう思っていたんだけどね。

 

でもよくよく考えたら私の方がずるいんですよ。

いくらフラットにといっても、やっぱり構図的には企業の方が立場が上なわけで。企業は企業名という大きな看板を掲げて接することができるわけで。

気持ちとしては1対1のコミュニケーションなんだけど、構造としては企業対個人なわけで、大きな看板を後ろ盾に私は守られているんだと思う。そういうことをわかっておきながら、振られた途端に、弱い立場になった途端に悲しいやら苦しいやら喚くのはとんだ勘違いだよね。

都合が悪い時は企業の名前をだして自分を守るくせに、自分が辛い時は個人を出して同情を引くなんて汚いな弱いなと思うけど、でもやっぱり私もひとりの人間なんですよ〜、わかってくださいよ〜、だからこうやって筆をとっているわけなんですよ〜、あぁ違う違うそういう戦略の本とかのおすすめをされたいわけじゃないんですよね。

 

人に期待することによって生じる胸の高まりと、人に期待したからこそ起きる落胆の気持ちのシーソーが自然とバランスをとれる仕組みになったらいいのになぁ。

 

こう言う話をしたら、「やっぱり人に期待しない方が人間関係は楽だよ」なんて言ってくる奴がいるけど、こういう奴は何もわかっていない。(余談だけどこんなことをすまし顔で言ってくる奴は絶対ひろゆきが好きだと思う。)

無理でしょ、どう考えても面白い子がいたら期待するでしょ。いいなぁ面白いなぁって引き込まれちゃうでしょ。めちゃくちゃ肉汁溢れるハンバーグがそこにあったら、美味しそうって思っちゃうでしょ。違う言い方で言うと、梅干し見るとよだれ出るでしょ、そうなんですパブロフの犬なんです。

誰かもう少し楽になるように飼い慣らしてくれないかなぁ。

「」の心身問題

「」こいつの価値はなんなんだ。

 

以前、仲良くしているデザイナーから教えてもらった。

「知ってる?「」をボーダー(線)で表現することもあるんだよ」

なんということだ。そんなことしなくていいようにカギ括弧と打てば「」が出てくるように世の中は回っている、それが当たり前だと思っていたのに、でてくるカギ括弧は使われずにわざわざ線でカギ括弧がつくられる世界がこの世にあったのだ。

なんということだ。


ほかにも、例えばカーニングなんかもそうで、デフォルトで設定された字と字の間隔は、ときにはよくない間隔だと判断されてわざわざ人の手で調整されるのである。そういうことは常識だと、私はデザインを勉強して初めて知った。

それなら最初っから最も良い間隔が調整されるように、誰かすごい人がそういうシステムをつくればいいじゃない!なんておもう。


わざわざ自分たちで通常はこのシステムで世の中回るように、例えば、「ここのボタンを押せばこのタイプのカギ括弧が出てくる仕様にしましょう。」なんて決めたにも拘らず、それじゃあダメだということで最初の決まりが機能しないときもあるだなんて。

そして、そういう状況で、じゃあここでの「」はボーダーで代替しましょう!じゃあここでの字と字の間はこれでいきましょう!と微修正されるのが当たり前だっただなんて。そうすることで通常より機能することがあるだなんて。


あれ、でもここまで書いていて思ったけれど、大体のことはそうだよな。

最初に決めたシステム通りにことが進むなんてうまい話は大抵なくて、その都度イレギュラーで対処されて、気がついたらそのイレギュラーが第二パターンとして浸透しているなんてこと世の中にありふれているんだったな。


自動変換で素知らぬ顔で登場する「」を使うたびに、私は「大丈夫、自動変換の「」、お前の出番はちゃんとあるからな。大抵のツールで使われるのは自動変換のお前だから安心しろ。お前はここで使い倒してやるから…」なんて思っていた。

でも、カギ括弧だけ特別扱いすることは、どうやら見当違いな行為なのかもしれない。


だいたい、人間も最初に決めたシステム通りにことが進むなんてありえないんだから、エラーパターンにも優しくしないといけないな。「」、お前はいいよな、平然と受けいれられていて、「」がボーダーで代替されていることに気がついていない人すらたくさんいるんだから。エラーパターンがエラーになってない。

 

とかいいながら、こう書いている私も実は違う世界線では他の材料から継ぎ接ぎされてつくられている可能性だって、そういうSFに浸るのは自由だし、そこまで妬む必要はないか。

とりあえず選ばれ続けるビールと人間関係について

 

「とりあえず生で。」

飲み会で、「とりあえず」という言葉を発するたびに、とりあえずでない生はあるのかしらなんて思う。

だいたいどの場面でもみんなとりあえずビールを頼んでいる。とりあえずでも選ばれ続けるビールが少し羨ましい。

 

お手洗いにと席を立つと同時に、ビールに軽く嫉妬したわたしはGoogleでとりあえずの意味を改めて調べてみる。

「まず第一に」「その場しのぎで」iPhoneの画面に表示されたその言葉を見て、前者の意味に比べると後者のビールはなんだか少しかわいそうで、二番目の女感があるなと思った。熟考して覚悟を決めるには少し余裕がなくて、安パイだという理由で選ばれたビール、そうして発せられた「とりあえず生で」。バチェラーかよ。こういう場合は早々にビールを飲み干し、2杯目にはブドウサワーを頼むに違いない。

 

ちょっとかわいそうなとりあえずに同情しながら席に戻ると、ちょうどドリンクが運ばれてきた。

じゃあお疲れさまでーす。どう、最近は。それぞれの近況報告から始まる。今週3度目の飲み会、社会人になって飲み会が増えた。

大学生の頃は飲み会と言うよりも友達と飲む会が多かったので、飲み会という単語を聞くと勝手にマイナスなイメージを抱くときもあったが、実際はそんなことなかった。嫌な時は断ればいいし、母親譲りでお酒が好きなわたしはそもそもお酒を飲めるだけでプラスなので、仮に飲み会の内容自体をマイナスに感じてもプラマイゼロでマイナスにはならないと気が付いたのであった。

 

「いやーほんと一緒に飲んでもらってごめんね、つき合わせちゃってさぁ。」「いやいや全然、むしろ楽しいですよわたしお酒好きなんで。」「じゃあよく飲むの?」「飲む時はそうですね、週3、4とか?差はありますけどね、ひとりで家で缶ビール飲むときもありますしこうやって友達とか先輩と飲むこともありますし。」「同期同士でもよく飲むの?」「あーだいたい決まったメンバーかもしれません、たまに大人数で飲みますけど。だよね?」「うん年に1.2回くらい集まるんじゃない?」「確かに大人数はそんなにないよねぇなかなか集まる機会は減るよねぇ。」「それに大人数は少し疲れますよね。」「うんうん、3,4人くらいがちゃんと話せるよね。」

 

飲み会のうち10回に3回は、大人数の飲み会は苦手だけど少人数の飲み会はいいよねという会話がある気がする。ちゃんと数えていないけど、多分それくらいな気がする。だいたい会の終盤くらい、いい塩梅に酔っ払ってどうでもいい話をただ楽しくする時間にそういう会話をする気がする。「もうこんな時間か」「じゃあそろそろ行きますか。チェックお願いします。」

多分今日の飲み会は今週初の大人数の飲み会は苦手だけど少人数の飲み会はいいよねで締まった会だ。

あーまだ水曜日だ、あと2日だよ、そんな会話の最中で分かれ道に差し掛かる。「では、わたしはこちらなので、お疲れさまです。」改札を通って、溜まっていたLINEに目を通す。ひとりになると意外と酔ってないなと思う。

 

じゃあなんで世の中に大人数の飲み会があるのか、飲み会の目的も色々あるからだよなぁ。電車でお礼のLINEの送信ボタンを押しながら、目的から逆算しようというビジネス書の一文を思い出す。

 

ちゃんと話せる飲み会とちゃんと話せない飲み会、人数の問題でもあるようだけどそれだけではなく、人間関係の目的の問題でもあるんじゃないかしら。

たとえ少人数であっても、あぁこれは多分わたしと話してないなぁ、わたしの持っている情報を手に入れるための会話なんだなぁなんて思う時がある。それに気がつくとわたしもそういうモードに切り替えて話をする。もしかしたら会話するうちに会話主に興味を持つこともあるかもしれないし、そしたらラッキーだし、とりあえずこの場がうまく回るようにしたい。

わたしを会話の対象とみなして、わたしも相手を会話の対象とみなして、どちらかがなんらかのメリットを感じたらまたなんらかの形で会うことになるし、そうじゃなかったら時間を作って会うことはなくなる。別に違和感はない。交友関係が広くなるとはそういうことでしょ。そこからふとしたきっかけがあって会話の対象Aから例えば山田さんになることもあるし、何があるかわからないし、そういうところに期待している節もある。

 

人間関係の目的なんていう人間味のない言葉をつい先ほど抵抗なく受け入れたくせに、目的なく関係性を築いてもらうことを期待している自分がいることに気がつくと気持ち悪いなと思う。でも20年以上そういう自分と付き合ってきたわけなので、そういう気持ち悪さにも強い嫌悪感を抱かなくなってきた。むしろそういう自分もあっていいじゃんと思うようになった。

嫌いだ、もう無理だ、そう思った時にそれをデメリットとして切っていたら死ぬので、自分とはそういう人間だと納得させる。なんだこいつと自分にがっかりする時もあるけど、だいたい何回か寝たら忘れる。そうやって自分と付き合うことに慣れてきた。付き合い続けて、なんだかんだ自分は自分のことが好きだと自覚できるようになった。

 

そろそろ最寄駅に着く。画面上部の未読通知を0にした後、公式LINEの未読通知の下にある母親からのLINEを見る。午前11時のメッセージに午後11時に返信する。

 

数ヶ月も顔を合わせていないのに淡々とメッセージを送ってきて、メリットとかデメリットとかそんな言葉はメモリ内蔵されていないんだろうなと感じる。人間関係を真面目に営んだ先にはそういう目的のない関係があるのかもしれない。

交友関係が増えて色々な目的の人間関係があることを少しずつ体感するようになるにつれて、本能なのかなんなのか、マイナスな感情が芽生えたとき、もう無理だと思ったときにも敢えて関係を切らないで向き合うことが必要なことだと感じるようになった。

 

そろそろ1日が終わるし、とりあえず明日からは、とりあえず関係を築き続ける努力もしてみることにする。

君たちはまな板の鯉になったことがあるか

 

えいっ為るがままよ!と腹をくくって身を任せる経験、まな板の鯉のように天命に従う経験、結構かっこいいエピソードとして語られるものだと思う。

私があと30年くらいすれば「あの頃はもう決死の思いでね…でもなんとかなるもんだよ、人生ね。」なんてちょっと遠い目をしながらそのそれなりにかっこいまな板の鯉エピソードを控えめに話すことになる。そしてそれを聞いた希望に満ち溢れた若者がやっぱすげえ、でも俺は越えてやる、もっといい世界をつくるぞと志を固めていくことになる。賢者は歴史に学ぶ。

 

とはいえ、今までのまな板の鯉エピソード(以下まな鯉)ってなんだっけなって。この22年間でもまぁまぁあるんじゃないのって考えていた。何かあったときのために用意しといたろ!って、いい感じにまとめといたろ!って思い返してみたけど、何かイマイチで私の人生深み無!!!って思って日が暮れて、朝が来る。そんな生活を送っていた。

 

でもつい最近やっとわかった。

まな鯉エピソード、私にもあった。

これがまな鯉エピソードかよって自分で言っておきながらやや引いたけど、もうこれしかないなって。

 

 

そうですそれは全身脱毛の施術のとき。

 

 

病院で使われる診察台みたいなベットにうつ伏せで寝そべるところから全ては始まる。身に纏うのは小学校の時の水泳の授業で使っていたような身体に巻くタオル。端と端をボタンで留めて筒状になったタオルの下には紙パンツ。

パンツといっても逆Tバックみたいな形でもうほぼ何もパンツとしての機能をはたしていない。なにも隠れていない。恥と恥から申し訳程度に身を守ってくれる精神的な支えのためだけに生まれてきた紙パンツがそこにはある。

 

というかそもそも人は何故パンツを履くのか?気になったので調べてみたらさすがインターネット。先輩方が調査済みでした。

パンツをはく文化が生まれたのは明治時代、洋風ドレスに和風の腰巻が不似合だったから。とはいえそこまでパンツ着用文化は浸透せず、契機は昭和7年に訪れました。

それは白木屋百貨店での火災事故。

 

デパートでの火災のときはまだ着物の女性がほとんどで 高い階から下の救命ネットに飛び降りるのを 着物がめくれあがるのを躊躇したため 多くの女性が焼死してしまったようです。 これは当時、大和撫子の恥じらいの美徳を世界のメディアにまで知らしめましたが パンツをはく風潮をつくったと言われてます。

らしいです。*1

 

 

あれから86年、 もともと恥部を隠して恥じらいを和らげるために誕生したパンツによって逆に恥ずかしめられるという矛盾した状況に陥っているが、生きるとはそういうことである。歴史からなにも学んでいない私は賢者には程遠い。

 

福岡の5倍以上店舗があるにも関わらず、福岡の3倍以上予約がとりにくい地、東京。

この一億総脱毛社会である東京で働く脱毛のお姉さんたちに時間的余裕はなく、私の恥じらいにお構いなしに施術は始まる。

 

脱毛の手順は以下になる。

えらく冷たいジェルを塗られ、温かいレーザーを当てられて、ジェルが拭き取られる。

その後ミストをかけられて保湿されるという流れだが、もう一度台の上に乗ってしまったなら身を任せるしかない。

この時点で既にまな鯉度合いが伝わると思うが、特に、VIOラインを施術されるときがひと際―――――私は、鯉になる。

 

「腰を浮かせてください」

機能面が皆無と言っていい紙パンツをほぼ脱ぐ。お姉さんは有無を言わさぬ手つきでジェルを塗る。

 

為すすべなし。

為るがままに、在るがままに。

 

私は、そのパンツに機能性がないとわかっておきながらも、

本当は意味なんてないって知っておきながらも、自ら履いたのだ。

 

人事は尽した。天命を待つのみーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから何時間経ったのだろうか、気が付いたらすべてが終わっていた。

降り注ぐミストによって、ついさっきまでレーザーをあてられていたとは思えないほど潤った全身がそこには広がっていた。

 

もう、終わったのか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあハーブティーはフロントでお出ししますね。眩しいので注意してください」

 

 そういって視界を塞いでいたタオルがとられる。

 

久しぶりに外界の景色をみた。

身体を起こす。

なんとか、、なった、、、、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全身脱毛を始めて1年ちょっと経つけどおススメですね。

まじで楽になるので。ちなみに私は銀座カラーです。

ようやく部活動の夢をみる呪いが解けた

ミズノのスパイク、日陰の無いトラック、蝉の鳴き声。

ウォータープルーフの日焼け止めを使っているはずなのに滴り落ちる汗は白く濁っていて、その汗をタオルで拭いた後、スパイクピンを締め直しながらタイムテーブルを確認する。

 

 

え?

 

時計を見直す。

 

召集*1、終わった?

 

まずい

 

 

 

 

陸上を辞めてもう5年経つのに未だにこんな夢を見ていた。半年前くらいまで。

召集というのはレース前の点呼のようなもので、設定された召集時間に手続きをしないと棄権とみなされて試合に出られない。

 

他の競技でも召集制度があるのかどうかは知らないけれど、陸上部にとって召集遅れによる失格は死を表す。

勿論自分自身が悔しいのもあるだろうが、大切なレースを単なる不注意で無駄にしてしまうだなんて、そんな理由で棄権だなんて、顧問に、メンバーに、会わせる顔がない。 

 

試合で力を発揮するために辛い練習を積み重ねてきたのに、それが召集時間を確認していなかったミスで台無しになることほど情けないものはないのである。

そんな頭が真っ白になるという夢を見た。

せめて現役時代に経験していたならわかるが、そんな恐ろしい経験をしたことがないにも関わらず。

ハッと目覚めて、大して暑くもないのに汗ばんでいることに気がついて、心底安心する。

安心してからは、本当に汗をかく夢を見るんだってことや、競技から身を引いて4年間も経つのに未だにこんな夢を見ていることをようやく認識できて、笑うこともできた。

 

一度じゃない、陸上現役時代に戻った夢は今までに何度も何度も見てきた。

例えば、高校時代ウォーミングアップのメニューとして決まっていた動きがあったのだけど、それを全て忘れる夢。

先頭で引っ張っていかなくてはならない立場なのに記憶が飛ぶ。いやいやありえないだろと思うけれど、それでまた頭が真っ白になって目覚める。

 

例えば、リレーのレース中に何故かバトンが消えていて失格。現実では有りえないけれど、そこではその事実があって、頭真っ白。県大会であれば当然のように表彰されるような強豪校だったのに、表彰アナウンスで自分の高校の名前が呼ばれない。

完全にチームは通夜。完全に顧問は瞳孔全開。これも夢だった。

 

他にもいくつかレパートリーはあるけれど、共通しているのは必ずバットエンド。頭が真っ白になって目覚めて、安心する。

 

一体いつまでこの夢を見るんだろう。

もう大学生活も終わりかけだというのに、まだ懲りずに高校時代の部活動の夢を見るのか。そう思っていた。

 

だけど、半年前からこの類の夢を見なくなった。

その理由は、当時の自分ときちんと向き合って、受け入れることが出来たからだろうと勝手に解釈している。 

夢は深層心理を表すという話もある。

深層心理に存在していた当時の感情が、「(悪)夢」という形で自分を支配していたんだろうな。夢っていう逃げようのない、しかも準備もできない場で仕掛けてくるのめちゃくちゃ性格悪いわ。お前とは仲良くできない。

 

もし過去に戻れるなら?人生やり直せるなら? 

著名人の質問箱に何度となく来るこの質問。私は過去はすべていいものだったと答えたいと思っていた。まっすぐな気持ちで、「全てが私の形成にポジティブな経験でした」と言いたいと思っていた。

マイナスな経験をマイナスだったと認めるよりも、成功は失敗のもと!と眩しく言う方がなんだか人生をうまく生きている感じがする。

 

だけどまっさらな気持ちで考えたとき、私はそうではなかった。

やっぱり高校時代、部活はあまり上手くいかなかった。

けれど、それ以外にも勉強はしていたし友達もいたし、大変だったけれどそれなりに頑張ったし。だからそれで良かったと思っていた。

 

でもやっぱり、良くなかった。

置かれた状況の中でもっと良くあるためにできることがあっただろうに、大した努力をせずに過ごしてしまったんじゃないだろうか。

自分のことばかり考えて、視野が狭くなっていたんじゃないだろうか。

 

「あぁ、あの時期勿体無かったな。嫌だったな。」と、高校を卒業してから4年も経ったときにきちんと受け入れられた。それからは別に、当時の自分を庇う必要もないし、過去の自分や状況を批判したっていいと思えたし、案外そうすると楽になった。

 

過去の経験が全て身になって、全て良いものでしたと言うと、綺麗で一貫性がある。

なんだか思うようにいかなかった経験も全て美談にしたいし、そもそもそんな経験がなかったかのように前に進める強さも欲しい。 

 

だけどそんなに簡単に語れるわけがない。

どうしたってダメだったときはダメだったんだから、きちんとそれを受け止めないといけない。

「失敗は成功のもと」って、きちんと失敗を失敗だと認められていることが前提にある。この言葉は今まで幾度となく聞いてきて、その度にすっかり分かった気になっていた。この言葉の背景を描いて理解できていなかった自分の浅さを思うと、また少し反省するし恥ずかしさも感じる。

 

失敗や後悔を思い出して、その原因を分析する作業は自分の弱いところと向き合う作業だから正直苦しい。そんなことしないで、「なんだか上手くいかなかったなぁ」くらいで済ませておいて新しいことに着手する方がよっぽど楽で楽しい。

自分が費やした時間が長ければ長いほど、それを失敗だったと、上手くいかなかったと認めることは苦しい。

 

人がそれまでの人生を語るときは綺麗で一貫性があるように話す。

だけど、人の人生ってもっと複雑で、繊細で、一貫して語れることはそう多くないだろう。

 

そんなはずじゃなかった自分と向き合って、じっくり寄り添って、そうしてようやく自分を受け入れる。そして、そんな自分と付き合っていくという地道な作業の先に、言葉で聞くと綺麗な物語があるんだと思う。

 

どうしたって自分と離れることはできないし、3年後くらいにはもう少し良い距離感で付き合えているといいんだけど。。。

社会人になって2週間の頼りない自分に、どうか頼むよとお願いするばかりです。

*1:レース前に行われる点呼。大会によって時間は異なるが、現役時代は40分前に召集に行っていた。(もう詳しい時間も忘れてしまった)

あんなに大好きだったのに、もうそれは過去の話で

 

 

あんなに大好きだったのに。

 

 

 

 

少し前から、卵焼きが「普通に好き」になった。なってしまっていた。

甘い卵焼きが本当に大好きで大好きだったのに、気が付いたら普通に美味しいとしか感じられなくなってしまっていた。

高校時代、ほぼ毎日母親がお弁当を作ってくれていて、ほぼ毎回甘い卵焼きが入っていた。結構な頻度で食べているくせに毎回美味しいと思い、毎回卵焼きが大好きだった。

 

私は、好きな食べ物ランキング(変動性)を高校3年生のときからつくっているのだけど、卵焼きは大学2年生の時まで、なんと3年連続2位の座に君臨していた。3年間であらゆる食べ物に触れてきた中での2位。優しい黄色に可愛らしい丸みのあるフォルム。シンプルな見た目と親しみやすさの裏にあるのは絶対的な自信か余裕か、他の一品とは安定感が違う。

例えば、ものすごく美味しくて、高いお寿司を食べたとする。

いや待てそんな高い寿司食べたことないので、良い肉を食べた、良いステーキを食べたとする。これはある。

もちろん幸せになる。一口一口を噛みしめて、匂いも、食感も、全てを味わいたいと思う。ものすごく好き。めちゃジューシー。柔らかいし脂がめちゃ美味しい。

 

だけど、所詮彼らは背伸びしたいとき用の、余所行きの味である。たまにしか味わえないし、たまに味わう事こそが良くって、安定感はない。

遊びの相手と本命は違うっていうのと似てるのかなとも思った。彼女と奥さんは違う的なね、知らんけど。それは常に全力であれよ。

 

そんな大本命の卵焼きも、大学入学後、徐々にお弁当を食べることが減るに伴って食べる機会も減ってしまうようになった。

それでも大学2年次くらいまでは2位の座に居座っていた、それくらい大好きな卵焼きだった。だけどあるとき、いつも通りあの安定のおいしさを、あのトロトロな、焼き固まりきっていない食感に、ちょうどいい甘さを期待して口に含んだときに、少し違和感を覚えてしまった。

 

「あれ? 普通に美味しい に成り下がってない?」

 

いや、美味しいのは美味しい。だけど、あの、「いつもの味のくせにうまい~~!」みたいなね、「ほんと単純なくせに、割と手軽に作れるくせに、もう全く美味しいんだからぁ!!」みたいなね。ディスったり悪口いったりもできるけど、それもその裏に絶対的な愛があるからこそ言えて、それは卵焼き側も知っているからこそ傷つかない、そういう仲くらいあった。

いや本気で言ってたら3年も2位じゃねぇだろ、お前それ、みたいなね。

 

なのに、『普通に美味しい』に成り下がってしまっていたことに気が付いてしまっていた。

 

お前、、おい、いつの間にウインナー的ポジションになってんだよって感じですよこっちからしたら。いやそりゃあ世間一般的には卵焼きもウインナーポジションの、「想像できるかつ想像通りの普通に美味しい奴」かもしれないよ?!でも、私にとっては、お前は、お前は・・・・そんなヤワな関係じゃなかっただろ!!?

安定感の中にも毎回感動がある、素朴な見た目で毎回ハードルを下げておいて、それを見事に裏切ってくれる、そんな、そんな刺激的な関係だったじゃないか…

 

ランキングをつくっていなかった中学生時代から控えめにアピールし続けてくれてさぁ、ランキングをつくって以降、毎食毎食がコンテストな訳よね、食べ物側からしたら。

今書いて初めて気が付いたけど、結構なプレッシャーだよね、毎食毎食が総選挙だよね。最低でも1日3回総選挙だよ。私のことは嫌いになっても食べ物の事は嫌いにならないでくださいって、、、いやいや、スケールが違いすぎるでしょ。背負うものが重すぎる。食物全般って、もう。

なのに全くそんな重圧を、葛藤を、全く感じさせないあの優しい安定感をみせていてくれたのねありがとう、、、、情熱大陸出演ものだよ、、、、

 

そんなたくさんの思い出を共有している卵焼き、大好きな卵焼き、勿論、そりゃあ、大好きなんだけど、「普通に好き」になっちゃったと気が付いてしまった。恐らく去年頃から。

このことがすごく寂しい。

 

私が変わっちゃったのか?卵焼きが変わっちゃったのか?どっちも変わっちゃったのか?

 

変わるって、人が変わることって、そんなに簡単なことではないと私は思っているからこそ、すごく寂しくなってしまった。

 

もう大学卒業が刻一刻と近づいてきているのだけど、大学に入って、高校の頃よりもぐんと関わる食べ物の数も、人の数も増えた。

仲良しだと胸を張って言える人から、あー顔は知ってるとか、イベントで会ったとか、そういう人まで親密度のグラデーションもグッと広がった。

小・中・高時代は仲が良かったのに、今となっては全く会わない友達も年を重ねるにつれて増えた。

 

だからこそ、久しぶりに昔の同級生に会うときはワクワクする。同窓会とまではいかなくても、何かの拍子で集まろうとなったときに当時の出来事を思い出して、懐かしむ。

そして、今は何をしているのかなとか、変わっているかなとか、色々想像しながら着ていく服を選んだり、メイクを考えたりしちゃう。

そうして当日を迎え、思い出話に花を咲かせることは楽しい。

楽しいんだけど、「あれ?案外面白くない、、、」と思ってしまったとき。また少し寂しくなってしまう。

楽しい過去の思い出を共有できているからこそ、現在の状態とのギャップが際立ってしまい、今のこの瞬間から楽しい思い出は生まれないかもしれないと感じつつも、今この瞬間を出来るだけ楽しくしたいと思うとき。

じゃあまたね!っていいながらも、この、また は叶えられることないだろうなって思うとき。

 

過去の記憶と実際に今感じている気持ちの差にさみしさを抱いてしまう。

 

「別にみんなと仲良くしなくちゃいけないわけでもないし、付き合う人は選ぶ」

「嫌々付き合うことはストレス」

そういう言葉はよく聞くし、実際そうだと思う。

 

他にも「人断捨離」、「人間関係断捨離」とかいう言葉も聞くようになったし、わざわざ自分が心を病んでしまうような、疲れる人間関係に身を置く必要はないと私も思う。

それに、私もそれをしている。意識的にも無意識的にも、年々関わる人が少しずつ変わっていっているだろうし、常に流動的な人間関係って確かにある。その変化がとても刺激的で楽しいことでもあるというのもわかる。

 

「(人付き合いが)意外とあっさりしてるよね」と友達に言われたことがある。

義理人情に厚い友人にそういわれて、あぁ私も選んでいたんだなと気が付いた。今はない関係性にさみしさを感じているくせに、私はこの子ほど人情味もないし、ドライな関係ばかりで自分勝手だなぁとも思った。

 

勿論わたしも、(言い方嫌いだけど)言葉を借りると、断捨離されている側だろうし。過去の人間関係や、そこで生まれた思い出がいつまでも新鮮で、不変なことの方が珍しいだろう。

そうなんよね、それが当たり前なんよね、と思いつつも、やっぱりさみしいなという感覚がうっすらとあるのもまた事実だし。

 

私が変わったのか、あなたが変わったのか

どちらも変わったのか、誰が変わったのか

ねぇ、どうなの? (と、ここまで書くとキモいけど、My Hair is bad っぽいですね…)

 

だけど、まぁその、どうなのって話なんだけど、さみしいと思うことばかりでもなくてその逆もある。

昔全然仲良くなかったのに、久しぶりに話したらめちゃくちゃ楽しいみたいなね。

ちょうど最近そういうことがあって面白かった。そういうのは嬉しいよね。

 

これから社会に出て、住む場所もすることも変わって、新しく、多くの人と出会うことはとても楽しみ。知らなかった世界をたくさん知ることが出来るようになるだろうし、色んな人と共通の思い出が沢山できるだろう。

だけど、同時に、過去の思い出でしか感じられない楽しさも増えるんだろうなとおもう。それを合理的に仕方がないことだと割り切るのも楽かもしれないけど、正直な感覚も無理して無視せずに過ごしてもいいよね。

 

木の屋 金華さば 彩 味噌煮 缶詰 170g

木の屋 金華さば 彩 味噌煮 缶詰 170g

 

 

ちなみに好きな食べ物ランキング1位は、未だ不動の「サバの味噌煮」です。拍手~!

あぁお前もいつか1位の座を明け渡す日が来るかもしれないのか??毎回の安定の感動は過去の話になってしまうのか?

上にあるサバ缶は、ブランド鯖を使った秋から冬の期間限定生産らしいんだけど、マツコの知らない世界で紹介されて以降品薄…。あー食べたい、、、、

スタバでMacを開くのくらい許して欲しいし楽しませて欲しい

 

友達との約束までの微妙な空き時間、午後四時にスタバでパソコンを開いた。

 

残念ながらMacBookではない。大学一年次に何もわからず流されるままに購入した大学生協パソコン。dynabook。今までに3回も修理をし、3万円ほど費やしたのに画面部分が自立しないという不都合を抱えている重たいパソコン。

あぁmac bookが欲しい。できれば軽いの。Airかな、Mac book Air かな。

 

スタバでMac book、横にはチャイティーラテ。デキる。

スタバなのにチャイを頼んでしまうあたり、王道のコーヒーでもなく、ミーハーの頼む何かしらのフラペチーノでもない敢えてのチャイ。そこも込み込みでデキる感がある。そしてチャイティーラテ(ホット)(たまにシナモンの粉とかもかけちゃう)は本当にスタバでいちばん好きなメニューで、ここで言いたいがためのネタではないあたりもこみ込みで完全にデキる私がそこにはいる。

 

かつてはスタバでMacを開くことを揶揄する文化があった。私の中にもかつてはあったが、今では何とも思わない。人って成長するんだな。

自分が成長しているか不安な人はまずスタバでMacを揶揄してしまうかしないかを1つの成長のものさしにしたらいいね。非常にわかりやすい。

だってスタバ便利だし。今やスタバではない気軽に入れて確実にwi-fiがあるカフェを手軽に見つけることの方が難しい。そしてメニューが幅広く、大抵美味しい。

コーヒーなんてまるで詳しくないのに、いや、詳しくないからこそ、数少ないメニューとにらめっこをした末に手違いでエスプレッソを頼んでしまい、(は?エスプレッソ???ってちっさ!!!!いや小さすぎやろ、エスプレッソってコーヒーの仲間やないんかい!!これコーヒーについてくるミルクレベルの小ささやんわろたwwwwwwwww)を必死で押し殺し、 ふむ、実にコクと深みのある香りだ。さて、ここのエスプレッソはどうエスプレッソしているかな なんて考えてそうな渋めの表情をしながら目の前に置かれた一口サイズのエスプレッソとどう時を過ごそうか悩ませることに時間を割く必要もなくなる。

 

そしてMacは使いやすい。

少なくともこの私の画面が自立せず、キーボードと画面が作る角度がどんどん開いていくような、放っておけば角度160度とかになるようなダイナミックな角度拡張が特徴的なダイナブックよりも。

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そう、スタバでMacは実に効率的なのである。

 

しかし揶揄こそしないものの、前述した通り、スタバでパソコンを開き仕事のような何かに真剣な顔で向き合うのはデキる人の行為でかっこいい行為という前提はしっかりと私の中に刷り込まれ、今でもそれは変わらない。

そのため、スタバでパソコンを広げる行為は効率的で最善でそこに他意は本来はないはず。なのにデキる風にしなければならないという想いに駆られ、気付いたら精一杯のデキる感を精一杯出さないようにしながら演出してしまっている。

 

デキる感、とはなにか。

まずは掻き上げ前髪である。できる女とは、前髪を掻き上げる。できる女とは、中村アンなのである。

そのため、私の場合は掻き上げるほど長くない前髪をまるで「そういうスタイリング」であるかのように必死で流す。要は気持ちが大切なので、まずは形から入った方がいい。

そして、真剣な表情をする。これは誰でもできる。真剣な中村アンになればいいだけだ。

そして、たまに少し疲れた表情で宙を見上げる。その直後にスケジュール帳を広げ急に手元を忙しくする。そのまま電話をかけてもいい。

もちろんこの間も前髪を掻き上げることを怠ってはならない。どんなときにも掻き上げることが最も「できる」をつくる要素になるからである。

 

大抵この3ステップを踏めばできる感はつくれる。

掻き上げを常に行い、真剣な表情をしたと思ったら宙を見上げ少しばかりの弱さを感じさせる疲れた顔をし、それとほぼ同時に急に思い出したかのような顔でバックからスケジュール帳を慌てて出し、とにかく手元を忙しくしつつ誰かに電話を掛ける中村アンになればいい。ヒールに白シャツとか服装にも拘れば尚それっぽい。

「カワイイ」よりもよっぽど簡単につくれるのは「デキる感」である。

 

そしてこの見せかけのデキるをまとった私は、その瞬間は完全にデキるのである。

ふと我に返ったとき、作業を辞めてLINEを開いたとき、イヤホンから流れる音楽を変更するとき、その瞬間にやっと「デキる私」を笑えるようになる。

 

他にも似たような瞬間はあらゆる場面である。

私は東京によく行く。そのたびにイベントを探す。

そして福岡では行けないおしゃれなポップアップショップを見に行くとき、「いかにもこういう場に行き慣れているこなれた奴」感を出す。個性的な身なりの店員さんとも友達かのようにガンガン話してしまう。そうでもしないと話せない。

京都にも先月行った。そこで何故かいい感じの図書館に行ったのだけど、しかも意味が分からないが観光をそっちのけに3時間も滞在したのだけど、「普段から行き慣れた図書館でいつも通り難しめの本を集中して読む勤勉な学生」感をだした。

 

 

 

「あの、隣、いいですか?」

 

襟付きのシャツを着た細身の彼は遠慮がちにそう言った。

イヤホンをしていて全く人の気配に気が付かなかった私は思わず自分の声のボリューム調節を忘れてしまい、大きな声で「はい」と答えた。

左隣のおじさんが眉を潜めてこちらを見る。

 

くすっと笑いながら隣に腰かけた彼は

「ぼくもそれ、読みました。面白いですよね。」

と、先程よりも人懐っこい声でそういいながら私の左手のそばにある小説を指さす。

疲れて読むのを放棄してしまったなんて言えずにうんうんと頷く私に、こう続ける。

「僕、毎日ここ来ているんですけど、全然若い人いないからなんだか嬉しいです。大学生で暇だし、ここって川も近いし、館内にカフェもあるじゃないですか。家も近いんですよね。いい場所にあるから好きなんです。」

「私も、私も大学生で、暇で。」

「えっ!そうかなって思ったんですよ。よかった、ここで友達できるとは思わなかったです。」

無自覚に声のトーンが上がったことに気付いたのか、少し顔が赤くなった。

「いや、勇気出して聞いてみるものですね。良かった。あっ話し過ぎですね、僕。ごめんなさい。」

 

どうやら彼は、緊張したときや照れたときはシャツの第2ボタンを触るクセがあるらしい。

 

 ……

 

 

 

 

のようなエピソードは全くなく、誰とも会話せずにただひたすら黙々と京都で読書をしただけだったが、とにかく「そういう学生感」を出した。

(主演俳優は神木隆之介、もしくは若い加瀬亮。)

 

福岡だったら、自分のよく知っている土地だったら、自分の知る人ばかりに囲まれていたら、そうだったらとても恥ずかしくてできないことが知らない土地ではできる。

いつもと違う日常をまるでいつものかのように送ることが出来るのが旅行の楽しみの一つだと最近思うようになった。まあ一人旅行に限るのだけど。

「」内の人物として無自覚に息をする中で、ふとそこから抜け出して空から見たときの非常に快感なことたるや。ニヤけてしまうecstasy。神様って楽しそう。

 

あのイカしたサラリーマンの持つパソコンの画面は実はYouTubeで、ただのつくったデキる感を見にまとっているだけかもなとか。

あのタバコをふかす気怠げな美人のお姉さんも擦れることなく今まできたことをどこか後悔してわかりやすくタバコに手をつけたのかなとか。

みんなもわたしと同じなのかなとか。

 

世の中を自分の見たいように見るなという話を最近聞いたが、うるせえな、自分の世界くらい好きなように見させてくれよって感じだ。

どう考えても特に何もデキないわたしだって、スタバにいるときくらいは、そこでパソコンを開くときくらいは、デキる人間でいさせてくれよ。

スタバでパソコンする奴はみんなデキるし、タバコをふかす気怠げな美女はみんな少し寂しいしそれでいい。1時間半くらい、そうであって欲しい世界を楽しませて欲しい。

 

Apple MacBook Air (13.3/1.6GHz Dual Core i5/8GB/128GB/802.11ac/USB3/Thunderbolt2) MMGF2J/A

というわけで、もしスタバでわたしを見かけたらそっとMac Bookをプレゼントしてください♡