あんなに大好きだったのに、もうそれは過去の話で
あんなに大好きだったのに。
少し前から、卵焼きが「普通に好き」になった。なってしまっていた。
甘い卵焼きが本当に大好きで大好きだったのに、気が付いたら普通に美味しいとしか感じられなくなってしまっていた。
高校時代、ほぼ毎日母親がお弁当を作ってくれていて、ほぼ毎回甘い卵焼きが入っていた。結構な頻度で食べているくせに毎回美味しいと思い、毎回卵焼きが大好きだった。
私は、好きな食べ物ランキング(変動性)を高校3年生のときからつくっているのだけど、卵焼きは大学2年生の時まで、なんと3年連続2位の座に君臨していた。3年間であらゆる食べ物に触れてきた中での2位。優しい黄色に可愛らしい丸みのあるフォルム。シンプルな見た目と親しみやすさの裏にあるのは絶対的な自信か余裕か、他の一品とは安定感が違う。
例えば、ものすごく美味しくて、高いお寿司を食べたとする。
いや待てそんな高い寿司食べたことないので、良い肉を食べた、良いステーキを食べたとする。これはある。
もちろん幸せになる。一口一口を噛みしめて、匂いも、食感も、全てを味わいたいと思う。ものすごく好き。めちゃジューシー。柔らかいし脂がめちゃ美味しい。
だけど、所詮彼らは背伸びしたいとき用の、余所行きの味である。たまにしか味わえないし、たまに味わう事こそが良くって、安定感はない。
遊びの相手と本命は違うっていうのと似てるのかなとも思った。彼女と奥さんは違う的なね、知らんけど。それは常に全力であれよ。
そんな大本命の卵焼きも、大学入学後、徐々にお弁当を食べることが減るに伴って食べる機会も減ってしまうようになった。
それでも大学2年次くらいまでは2位の座に居座っていた、それくらい大好きな卵焼きだった。だけどあるとき、いつも通りあの安定のおいしさを、あのトロトロな、焼き固まりきっていない食感に、ちょうどいい甘さを期待して口に含んだときに、少し違和感を覚えてしまった。
「あれ? 普通に美味しい に成り下がってない?」
いや、美味しいのは美味しい。だけど、あの、「いつもの味のくせにうまい~~!」みたいなね、「ほんと単純なくせに、割と手軽に作れるくせに、もう全く美味しいんだからぁ!!」みたいなね。ディスったり悪口いったりもできるけど、それもその裏に絶対的な愛があるからこそ言えて、それは卵焼き側も知っているからこそ傷つかない、そういう仲くらいあった。
いや本気で言ってたら3年も2位じゃねぇだろ、お前それ、みたいなね。
なのに、『普通に美味しい』に成り下がってしまっていたことに気が付いてしまっていた。
お前、、おい、いつの間にウインナー的ポジションになってんだよって感じですよこっちからしたら。いやそりゃあ世間一般的には卵焼きもウインナーポジションの、「想像できるかつ想像通りの普通に美味しい奴」かもしれないよ?!でも、私にとっては、お前は、お前は・・・・そんなヤワな関係じゃなかっただろ!!?
安定感の中にも毎回感動がある、素朴な見た目で毎回ハードルを下げておいて、それを見事に裏切ってくれる、そんな、そんな刺激的な関係だったじゃないか…
ランキングをつくっていなかった中学生時代から控えめにアピールし続けてくれてさぁ、ランキングをつくって以降、毎食毎食がコンテストな訳よね、食べ物側からしたら。
今書いて初めて気が付いたけど、結構なプレッシャーだよね、毎食毎食が総選挙だよね。最低でも1日3回総選挙だよ。私のことは嫌いになっても食べ物の事は嫌いにならないでくださいって、、、いやいや、スケールが違いすぎるでしょ。背負うものが重すぎる。食物全般って、もう。
なのに全くそんな重圧を、葛藤を、全く感じさせないあの優しい安定感をみせていてくれたのねありがとう、、、、情熱大陸出演ものだよ、、、、
そんなたくさんの思い出を共有している卵焼き、大好きな卵焼き、勿論、そりゃあ、大好きなんだけど、「普通に好き」になっちゃったと気が付いてしまった。恐らく去年頃から。
このことがすごく寂しい。
私が変わっちゃったのか?卵焼きが変わっちゃったのか?どっちも変わっちゃったのか?
変わるって、人が変わることって、そんなに簡単なことではないと私は思っているからこそ、すごく寂しくなってしまった。
もう大学卒業が刻一刻と近づいてきているのだけど、大学に入って、高校の頃よりもぐんと関わる食べ物の数も、人の数も増えた。
仲良しだと胸を張って言える人から、あー顔は知ってるとか、イベントで会ったとか、そういう人まで親密度のグラデーションもグッと広がった。
小・中・高時代は仲が良かったのに、今となっては全く会わない友達も年を重ねるにつれて増えた。
だからこそ、久しぶりに昔の同級生に会うときはワクワクする。同窓会とまではいかなくても、何かの拍子で集まろうとなったときに当時の出来事を思い出して、懐かしむ。
そして、今は何をしているのかなとか、変わっているかなとか、色々想像しながら着ていく服を選んだり、メイクを考えたりしちゃう。
そうして当日を迎え、思い出話に花を咲かせることは楽しい。
楽しいんだけど、「あれ?案外面白くない、、、」と思ってしまったとき。また少し寂しくなってしまう。
楽しい過去の思い出を共有できているからこそ、現在の状態とのギャップが際立ってしまい、今のこの瞬間から楽しい思い出は生まれないかもしれないと感じつつも、今この瞬間を出来るだけ楽しくしたいと思うとき。
じゃあまたね!っていいながらも、この、また は叶えられることないだろうなって思うとき。
過去の記憶と実際に今感じている気持ちの差にさみしさを抱いてしまう。
「別にみんなと仲良くしなくちゃいけないわけでもないし、付き合う人は選ぶ」
「嫌々付き合うことはストレス」
そういう言葉はよく聞くし、実際そうだと思う。
他にも「人断捨離」、「人間関係断捨離」とかいう言葉も聞くようになったし、わざわざ自分が心を病んでしまうような、疲れる人間関係に身を置く必要はないと私も思う。
それに、私もそれをしている。意識的にも無意識的にも、年々関わる人が少しずつ変わっていっているだろうし、常に流動的な人間関係って確かにある。その変化がとても刺激的で楽しいことでもあるというのもわかる。
「(人付き合いが)意外とあっさりしてるよね」と友達に言われたことがある。
義理人情に厚い友人にそういわれて、あぁ私も選んでいたんだなと気が付いた。今はない関係性にさみしさを感じているくせに、私はこの子ほど人情味もないし、ドライな関係ばかりで自分勝手だなぁとも思った。
勿論わたしも、(言い方嫌いだけど)言葉を借りると、断捨離されている側だろうし。過去の人間関係や、そこで生まれた思い出がいつまでも新鮮で、不変なことの方が珍しいだろう。
そうなんよね、それが当たり前なんよね、と思いつつも、やっぱりさみしいなという感覚がうっすらとあるのもまた事実だし。
私が変わったのか、あなたが変わったのか
どちらも変わったのか、誰が変わったのか
ねぇ、どうなの? (と、ここまで書くとキモいけど、My Hair is bad っぽいですね…)
だけど、まぁその、どうなのって話なんだけど、さみしいと思うことばかりでもなくてその逆もある。
昔全然仲良くなかったのに、久しぶりに話したらめちゃくちゃ楽しいみたいなね。
ちょうど最近そういうことがあって面白かった。そういうのは嬉しいよね。
これから社会に出て、住む場所もすることも変わって、新しく、多くの人と出会うことはとても楽しみ。知らなかった世界をたくさん知ることが出来るようになるだろうし、色んな人と共通の思い出が沢山できるだろう。
だけど、同時に、過去の思い出でしか感じられない楽しさも増えるんだろうなとおもう。それを合理的に仕方がないことだと割り切るのも楽かもしれないけど、正直な感覚も無理して無視せずに過ごしてもいいよね。
ちなみに好きな食べ物ランキング1位は、未だ不動の「サバの味噌煮」です。拍手~!
あぁお前もいつか1位の座を明け渡す日が来るかもしれないのか??毎回の安定の感動は過去の話になってしまうのか?
上にあるサバ缶は、ブランド鯖を使った秋から冬の期間限定生産らしいんだけど、マツコの知らない世界で紹介されて以降品薄…。あー食べたい、、、、