自分探しの旅にインドに行く前に色々考えたので広い心と深い愛で全部受け止めて欲しい
何故人は自分探しをしたがるのだろう
何故人はそれをインドで探したがるのだろう
何故何故何故何故何故
そう思っていたわたしも、自分探しをしたくなる症候群にかかった。
就活で「自分らしさとは?」みたいなことを考える場面を私は避けて通れず、思わず自分探しの旅に出かけたくなる衝動に駆られたのだ。
インドあたりに。
急に、自分とは???自己アイデンティティとは!??!ないな!!!!ないわけない探せ!!!みたいな。
それで仲いい友達に「私の長所と短所を述べよ」「私らしさとはなにか述べよ」みたいに図々しく聞いてみることをしたり、過去の日記なんかを読み漁ったりした。
でも、例えば高校と大学の友達に聞いたらそれぞれに違う「私」がいて混乱。
高校の日記(部活動で毎日書いていた日誌)をみたら、半分くらいはまるで私じゃない他人が書いたような内容。めちゃ自分に厳しいやんwちょっと盛るにしても引くくらいストイックやんwみたいな。
結局、「私はこういう人間です」という普遍的説明書はつくれず。
そのときは少し悩んだ。
おい!!私のトリセツは?!
西野カナ頼む!!作ってくれ!!!
西野カナは作ってくれない。
でもよくよく考えるとそんな万能トリセツはないと気が付いた。
だってそもそも自分の中に複数性があるのは当たり前だしな、と。
多分、どんな場でも似たような態度をとれる人もいれば、場に応じて振る舞いが変わりやすい人もいて、自分の中にある自己の数が多いか少ないか、その差異が小さいか大きいかだけの話だろう。
この考えは結構腑に落ちていて、それぞれの場でのあらゆる自分の振る舞い、あらゆる態度、全て含めて「自分」だと思うことで「脱☆自分探し」ができた。
例えば、私@カラオケ は、歌の上手い人がいる、盛り上げる人がいるメンバーでカラオケに行くときはとにかく聞き役、聞いて盛り上げるに徹したい。
でも、盛り上げる人があまりいない、なんならカラオケ苦手みたいな人がいる場面ではとにかく歌って盛り上げたい。歌うのが苦手な人もせっかくならこの場を楽しんでもらいたいし、私も歌は上手くないのでその気持ちは少しは分かるし。
どちらの場でも私は嫌々しているわけではないし、どちらの場でも結構楽しい。
カラオケという同じ行為の場であっても、その場の構成員が違えば異なる場となる。それぞれに応じた私がいる。
最近カラオケに行ったのでカラオケでの自己の使い分けの例を出したけれど、他の場でもこのような使い分けはたくさんある。
場に応じた自己を使い分けることは当たり前で、この前提なしに自分とはなにかを考えてもそりゃ見つからない。
そして、この複数の自己の存在を前提としたとき、自分の思う自己に固執するあまりに場に反した自己を貫き通すことはその場を構成する一員として正しい振る舞いではないと思うようになった。
大切なのは、色々な自己を使い分ける中でいくつかの居心地のいい場があるとしたときに、その居心地のいい場を大切にしていくこと、大切にできる環境が用意されていることだと思う。
私は自分が楽だな、ここにいたいなと思うその感覚を大切にしていきたい。
西野カナのあのトリセツも「ダーリン(Darling )の前でのワタシ♡」のトリセツに過ぎない。
四六時中誰に対してもあんな思考の女はいくら可愛くても まず市場に出ない。
自分を探しに旅するくらいなら、自分がココだ!と感じる場をたくさん探したほうが新しい自己の発見があって面白いのかもなぁなんて思います。
その新しい場を自ら開拓していくということがあまり得意な方ではないので、自戒の意味も込めてやや偉そうな締めくくりをする、、こんな私だけど笑って許して、、、
東京の人混みから身を守るどころかむしろ人混みに希望を感じるための思考法
東京に来る度に人の多さにウンザリする。
なんなんだみんな家に帰ってくれ。密集度が尋常じゃない。街を歩くだけで疲れる。
東京の人の多さを想像できない可愛い福岡ピープルのために説明するとするなら、東京で体感する人口密度はバレンタインシーズンの三越8階の催事場くらいの人の多さである。
あれが常。東京の日常、、。
しかしそれでも我々は強く生きねばならない。人混みに揉まれてもたくましく毎日を生きる必要がある。
そのための画期的な思考法をここでは紹介したい!!
その思考法とは、
ここ東京に藤原基央が生きていることを思い出す。
これに尽きる。
これしかない。
藤原基央といえばわたしが愛して止まない、中学二年生から健気に愛し続けたBUMP OF CHICKEN のボーカルであるが、あの彼がここ東京にいると思えば人混みなんかなんのその。彼がもしかしたらこの人混みのどこかに存在しているのかもしれない。いや、いる。確かに存在しているのだ。いないわけはない。わたしの半径10メートル以内にいなくともその範囲を広げていけば必ずいるはずである。
もしかしたらこの人混みの中に藤原基央が、、、?!!?
『ウォーリーを探せ』もしくは『ミッケ!』を読んだことがある同胞なら理解できると思うが、まさにこの感覚で『藤原基央を探せ!』を無制限にできるのである。そう、今は大海賊時代。ここは東京、イーストブルー。藤原基央という名の宝を探し出す旅は気付いたら始まっているのだ。海賊王になるしかないだろう。
それにこの思考法においては、藤原基央とわたしの間の物理的距離がいくらであろうと問題ではない。
本質はそこではないのだ。
わたしと物理的に接触可能な一般人(ここでは藤原基央ならびに好みの芸能人以外と定義する。例としては菅田将暉や西島秀俊など。)が藤原基央と何らかの形で接触した後かもしれない。
音楽関係者や藤原基央が行きつけのケーキ屋(彼は甘いものが大好きらしいので、行きつけのケーキ屋があるという設定にした)の店員など彼と接触して間もない人間が隣にいるかもしれない。
これは間接キスならぬ間接藤原基央である。
わたしは21にもなるのに思考がまだ中二で止まっている部分があり、間接キスにも耐性がない。異性から「飲む?」などと直飲みしたペッドボトルなどをシラフで渡されようものなら恐らく動揺しまくる。
ーー ーー
「飲む?」
輝く笑顔、差し出される右手、そこにはポカリスエット。数秒前まで彼のその柔らかそうな薄い唇に触れていた飲み口が、今、目の前に。
「ありがとう、神木くん、、、」
そう。恋に落ちる。
ーーーー
とまぁこんな具合に。
そのため間接藤原基央にも同じように耐性がなく、興奮できる。間接だろうとなんだろうと藤原基央と接触した人間とわたしが接触しているということはわたしも藤原基央と接触しているのである。
念のため自慢しておくと、2014年のツアー「WILLPOLIS 2014」in 幕張メッセと2016年の「BUMP OF CHICKEN STADIUM TOUR 2016"BFLY"」in 福岡マリンメッセ
で2度も藤原基央の手に触れた経験があるんですけどね!!!!!実は接触済みなんですけどね!!!!!ハハハ!!
以上、何が言いたかったかというと、わたしはもはや人混みに希望さえ感じられる。